フィレンツェの共和国広場へ。
サッカー場ひとつ分ほど(約75m×100m)の大きさの共和国広場は、イタリアがサヴォイア家を王としたイタリア王国の時、首都となった町に相応しい都市開発の一環として建設された。当時はイタリア王国最初の王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前で親しまれ、広場の中心に彼の銅像が置かれていた。(この銅像は今はカシーネ公園に移動)
共和国広場ができる前はここには市民の人々が利用する市場があった。広場にある円柱はフィレンツェ市の繁栄を願って建てられた『豊穣の円柱』。円柱のオリジナルは1431年ドナテッロによるが、現在の円柱は三代目で、1956年の複製。この柱にある2箇所の鉄の輪の上部には、市場の開閉を知らせる鐘がつられ、下部には不誠実な商人をつなぐさらし台があった。
広場と円柱の歴史は古代ローマ時代までさかのぼる。その昔、ローマ人は征服した土地に、まず南北と東西を通る2本の道を作り、その周りに町を発展させた。そして南北と東西を結ぶ地点に豊穣の印として円柱を立て、円柱のある場所を町の中心地である広場とした。写真は、ローマ時代の広場の模型である。
中世から、住居や教会、井戸などがところ狭しと立ち並び、メルカート・ヴェッキオ(古い市場)と呼ばれる市場が栄え、市民生活の中心地であった。市場に面した場所にはメディチ家のコジモ1世の命により、16世紀からユダヤ人が集められユダヤ人街ゲットーも存在した。
以下3枚の写真は、1870年頃の広場の模型である。家々は撤去され、赤い矢印のあるところに共和国広場の門が建てられた。
1885年に始まった都市開発は、写真でも見られるようにあまりにも建物が集中しすぎて不衛生であるため、これらの建物を撤去することから始まる。
そして市場は新しく建設されたメルカート・チェントラーレ(中央市場)へ移動した。
北イタリア風の広場が整うと、フィレンツェのいわゆる老舗バールとなるGilli、Paszkowskiや Giubbe Rossiが生まれ、以前の雑多で猥雑な賑わいから洗練されたものへと変化を遂げた。第二次世界大戦後、イタリア王国から共和国となったイタリアで、この広場もヴィットーリオ・エマヌエーレ2世から共和国広場へと名前を変えた。
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