アンギアーリの戦いの舞台へ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の絵画「アンギアーリの戦い」の舞台となったアンギアーリを訪れた。
「アンギアーリの戦い」といえば、私たち日本人にとってはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で広く知られ、ヴェッキオ宮殿の五百人広間に描かれたヴァザーリの絵に示された言葉「探せ、さらば見つからん」によりさらに注目されているが、ダ・ヴィンチをして絵画の主題とした実際の「アンギアーリの戦い」とは、いかに?
アンギアーリ村は、アレッツォから東へ車で40分ほど行ったところにある小さな田舎町である。
標高400m強の丘の上に位置する歴史地区は大変小さいが、中世の趣を色濃く残した美しい村だ。
冬の季節は観光客もおらずひっそりとしている。角から甲冑を着た中世の騎士が現れてもおかしくないほど、昔のたたずまいがきれいに保存されている。
トスカーナの田舎町の例にもれず、ここも坂道が多い。
アンギアーリの戦いとは、フィレンツェ共和国軍・ヴェネチア共和国軍・法王軍の同盟軍と、ミラノ公国軍との間で1440年に行われた戦いである。
同盟軍はフィレンツェ軍4000人、ヴェネチア軍300人、法王軍4000人、ほかアンギアーリの義勇軍。対して、ミラノ軍は6000の騎馬兵と3000の歩兵と数の上では勝っていた。
ミラノ軍は、1440年6月28日夜に、アンギアーリ近くの町、サンセポルクロへ到着する。そこへサンセポルクロの軍隊2000人がミラノ軍に加わった。翌日、ミラノ軍はアンギアーリにいるフィレンツェ軍に奇襲をかける。
写真からは見にくいかもしれないが、山脈のほうへのびる一本の道があるが、その先にあるのがサンセポルクロだ。
奇襲であったはずが、フィレンツェ軍が敵軍のあげる砂埃を見つけ、すぐに戦闘体制に入る。そしてアンギアーリの村に近い橋が戦場となる。まっすぐな1本道はサンセポロクロへと続くのがわかる。
戦いの模型。奥の町がサンセポルクロと思われる。中心に群れを成す軍がミラノ軍で、その周囲を囲んでいるのが同盟軍かと思われる。
同日の夜に幕を閉じた戦いの結果は、同盟軍の勝利。数の上では負けていたにもかかわらず、また五分五分の戦いであったように見えたのだが、最終的には同盟軍が勝利を収めた。アンギアーリの年代記によると、「日が暮れはじめ、吹く風が巻き起こした砂埃がミラノ軍を襲ったのが、同盟軍に勝利を運んだ」と記されている。
マッキャベッリはこの戦いを、こう皮肉る。
「大騒ぎしたわりには、この戦いで戦死したのはたった一人。この者は、戦って死んだのではなく、馬から落ちたのだ。」
実際、ミラノ軍の戦死者は60人ほど。ダ・ヴィンチが絵にしなければ、歴史から顧みられぬ戦いだったのだろう。
しかし、同時にこうも言っている。
「この戦いで、ミラノ軍が負けると兵士と馬を失うのみだが、同盟軍が負けてしまったならフィレンツェはトスカーナ地方を失っただろう」と、戦いの勝利の重要性も認めている。
幻の絵画「アンギアーリの戦い」は、1503年フィレンツェ共和国がレオナルドへ依頼した作品である。
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