春のフィエーゾレへ。
漂う空気に春を感じながらも長らく寒い日々が続いていたが、とうとう昼間は半袖でも大丈夫という気候となった。まぁ、薄手のセーターから半袖にというのも行き過ぎだと思うのだが、桜の花も満開だ。
野の花も咲き乱れ、娘が一生懸命に花を摘んでは私のリュックのポケットに差し込むので、どうせ駄目だと思いながらも少しは家に持ち帰った。案の定、家に着くと元気のない様子だったが、とりあえず水に挿して置いたら翌日には生き返ってきた。自然の力ってすごい。こんなところにも春を感じる今日この頃、フィエーゾレの遺跡を、遺跡発掘・修復の第一人者である教授とともに見学する機会に恵まれた。
フィエーゾレとは、フィレンツェを囲む丘陵地帯の東に位置する丘の上の町である。フィレンツェが発達する前に、エトルリア人、古代ローマ人が居住し町を作ったということで「フィレンツェの母」と呼ばれる所以だが、発達したフィレンツェに「目の上のこぶで、鬱陶しい!」と攻撃されたフィエーゾレ。重なる破壊と風化で劣化し、年月とともに草木や土砂に覆われた無残な姿と化した古代の建物は、1809年にその存在が発見され、度々の修復のおかげで、紀元前3世紀から紀元1世紀に建設された古代ローマ人による劇場、テルメ、(一部エトルリア人の)神殿跡を見ることができる。遺跡であるから、解説と想像力を要するが…。
劇場跡は修復が比較的進んでおり、現在は夏の野外劇場として使用されている。
約1万5千人から2万人を収容できる規模のもので、演劇(悲劇は上演されなかったそうだ)やマイムなどを上演した。舞台に近い下の段から位の高い人々の席があった。正面舞台の後ろには高い壁があり、背景を描いた布(?)をかけたり、また音を反響させる役割もあったそうだ。
3種の遺跡の中で一番興味深かったのが、テルメ施設。テルマエ・ロマエで古代ローマ人にとってどれほど温泉が重要であったが面白おかしく描かれているが、本当に施設の充実していること!
ここには、室内、室外に2つの浴槽、1つのプール、フリギダリム、テピダリウム、カルダリウムと呼ばれる
冷たい、ぬるい、熱いと温度の違う3つの部屋(浴槽もあったのかな?)、サウナがあったそうだ。
これが一番大きい浴槽なのだが、なんと浴槽の床は、手前から奥に向けて傾斜している。なるほど、入りやすかったろう。浴槽の奥の槽では、汚れた水を綺麗にした。当時、人々は石鹸ではなく油で体を洗っていたので、油で汚れた水を綺麗にする必要があった。
油で体って綺麗になるのかしらん?と頭を捻っていると、ハッ!私は今、化粧落としクレンジングにオリーブオイル使ってるやん!お友達からどんなにしつこいアイメークもオリーブオイルなら落ちるというのを聞いたので実戦してみると、綺麗に取れる上に、肌がしっとりする。
その上彼らはあかすりのようなこともやっているのだから、恐るべし古代ローマ人!
これは長細く、浅いプール。ここはお湯に浸かるのが目的ではなく、歩行浴のためのプール。
一部が修復で再現されているのだが、これがハイポコーストと呼ばれる古代ローマの床暖房。
フィエーゾレのテルメに引く水は冷水だったので、写真の部屋の隣にある部屋で湯を沸かして各浴槽にお湯を流していた。お湯を沸かす際にでる湯気がこの部屋の床下に流れる。すると、湯気のおかげで部屋の床が暖まる。写真の「ここから湯気」と書かれた筒から、湯気が出る仕組み。まさに、サウナだ。レンガが使われているのは、熱伝導が良いからだそうだ。
この床暖房システムは古代ローマの温泉には欠かせないシステムで、おかげで室内を暖かく保つことができた。我が家の冬の浴室の方がずっと寒いに違いない。
何よりも驚くことは、フィエーゾレの劇場もテルメも無料であったこと。古代ローマ人は夜明けと共に仕事を始め、午前中で仕事を終え、午後はテルメへ行き運動で汗を流したり、そして湯でリラックスしながら社交をしながら2時間ほど過ごして家に帰る。夕暮れ前には必ず食事を済ませたというから、何と健康的な生活習慣であったろう!
(ヤマザキマリ ニッポン見聞録から抜粋)
トイレ!遺跡跡に設置されたテルメの説明図を見ると、ここがトイレとなっている。興味津々であったが、教授は説明をされなかった!なぜ、テンテェー?!溝は海綿洗うための水が流れてたのぉぉぉ?穴の型からして真ん中にあるのが便器?だとしたら、3人まで使用可能だったのかしら?いや、テルマエ・ロマエでは便器は壁に沿って設置されたなぁ?うーん、先生の解説を聞きたかったが、トイレについて質問するのが気が引けた(心は)乙女な私…。後悔…。
これは、神殿。エトルリア時代と古代ローマ時代が混ざっている。写真に見える階段は古代ローマ時代の神殿への階段。
娘がいる場所が、エトルリア時代の神殿の地上部。
階段を登り、エトルリア時代の神殿の入口へ。階段の一部が広くなっているが(娘が写っている場所)、ここでおそらく司祭が市民に向かって振り返り、話をした場所なのではないかとのこと。
そして、階段を上ると神殿内で、司祭のみが入ることができた。
子供たちが立っている更に奥の場所は赤色に塗られた宝物殿のような部屋があったそうで、そこからたくさん脚などの体の一部のみのブロンズ像が見つかったことから、この神殿は医学の神としてのミネルヴァに捧げられたものではないかと言われている。
これがエトルリア時代のものだが、古代ローマ時代の神殿はというと、写真の左、黄色い野花の下にある石板が神殿の床に当たる。古代ローマ人はエトルリア人の神殿を壊して自分たちの神殿を造った。古代ローマ人のあとにこの地を征服したロンゴバルド人が古代ローマの神殿をぶっ壊し、自分たちの墓を造ったという。いやはや。
こういうのを見ると、平家物語の冒頭文が思い出される。諸行無常に盛者必衰で、春の世の夢ですなぁ・・・。
博物館入口に飾られている、エトルリア時代の碑には、「この石碑が掲げられている城壁のある場所からフィエーゾレの領域である」と書かれているそうだ。エトルリア人は文字を右から左に書いたそうで、赤線が引かれている(私が引いた)ところはフィエーゾレと読むことが出来る。
フィエーゾレはフィレンツェの街を遠目に眺めることができるのでとてもフィレンツェっ子のロマンチックなデートスポットでもあるわけだが、ローマに比べると遺跡の規模は小さいけれどもご興味がある方は是非、こちらにも足をお運び下さいませ。
フィエーゾレまでは、サン・マルコ広場から出ている7番バスで行くことができます。
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