フィレンツェの中世の通り
花の都フィレンツェ。美術館には名画が溢れ、街を歩くとまるで町自体が博物館のようである。
しかし現在のフィレンツェで、19世紀のイタリア統一で首都に選ばれたために行われた都市計画のため、また第二次世界大戦の空襲のため、記念建築物を除いて実際に中世の姿を残す通りは少ない。
では、12、13世紀のフィレンツェの町とは、どういう風だったのか?
この時代、フィレンツェの町には様々な説があるものの、約150本もの塔が林立していた。塔の高さは25メートルから65メートルあったという。
町中で争いが絶えなかった時代。塔の屋上にカタパルトを設置し、敵対する一家が所有する塔へ目掛けて投石したり、隣接する敵の塔の壁をぶち抜いて攻撃したりと戦いの仕方も、原始的というのか大胆である。
「塔とは、戦いの記憶である。塔はまさに、家族内の、道端での、地区での、町での、党内の、性癖の、信仰の、人種の、全ての種類・形態における不和の遺物である。」
戦いの原因は簡略に言うと、叙任権にあり、ドイツで神聖ローマ帝国の次期皇帝の座を狙い、皇帝派一族(ギベリーニ)と教皇派一族(グェルフィ)が争ったことから、イタリアに飛び火したこの戦いは皇帝派ギベリーニ党・教皇派グェルフィ党と呼ばれるが、皇帝派・教皇派には固執せず、昨日はギベリーニ、今日はグェルフィという風に経済的に社会的に自分に都合のよい派の見方をした。だからこそ、名前を変えて主人公を変えて、町中での戦いは200年以上続いたのであろう。
広い場所があるとそこに人々が集まり反乱の機会を与えるということで、教会前の広場を覗いて市民が集まる広場が現れるのはもう少し先の話となる。町中は息苦しくなるような狭い路地が続き、唯でさえ狭い上に、塔から塔へ行き来するのに掛けられた連結部が見上げる視界を塞ぐ。
フィレンツェの路上で、ダンテが振り仰いだ空というのはこんな感じであっただろう。
さらに、うっかりしていると糞尿が頭上から落ちてくる。上ばかり気にしていると足元で大変なことになってしまうだろうし、中世のフィレンツェ、残されなかったのを残念と思う反面、あまりにも今と違う世界であったのに驚くばかりである。
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