フィレンツェでジェフ・クーンズ展覧会
2022年1月30日まで、フィレンツェのストロッツィ宮で開催されている展覧会「ジェフ・クーンズ / Shine」へ行って来た。
今回のフィレンツェでの展覧会は、イタリアで開催されたジェフ・クーンズの展の中で最大規模となり、以前ナポリで開催された時より1点多い合計33作品が展示されている。そして、これは70年代から今日まで、アメリカ人芸術家クーンズの40年の活動をまとめたものとなる。
中庭には、ストロッツィ宮財団のシンボルカラーと同じ青色の「猿」が展示されている。6m×4mという大きな作品は、一見、風に吹かれて飛んで行きそうな風船に見えるが、実は重さ5トンの磨き上げられたステンレス製なのだ。ルネサンス様式の建物に現代アートが意外としっくりくるのは、ルネサンスの調和溢れる美しさの土台があるからだろうか。
展覧会の最初に出会う作品は、「バレリーナ」と「聖なるハート」。
ドガを彷彿とさせる座って靴を直すバレリーナは、ウクライナ出身の小さな磁器製の作品をそっくり真似たものである。バレリーナもハートも磨かれたステンレス製で、展覧会全体のテーマであるShine光沢を見事に表現している。
作品の設置位置はクーンズ本人が全て決定した。クーンズは非常にこだわりの強い芸術家らしく、光沢を最もうまく表現できる照明の位置は1インチもずれてはならないと妥協を許さなかったそうだ。
2つ目の部屋には、クーンズの作品の中で最も有名であろう「兎」がいた。最も有名というのも、2019年にニューヨークのクリスティーズのオークションで存命芸術家の中で最高額が出たからでもある。
ビニール製のバルーン兎をモチーフとしたステンレス製だ。ちゃんとビニール製特有の皺や息を吹き込む部分があり、本当に硬いの?と思わず触って見たくなる。そう思う人も多いからか、流石にこの作品はガラスケースに入っていた。
息を吹き込むと膨らむがいつかは萎むバルーン兎を不滅のステンレス製にすることで、軽いようで重い、人を誘い込むようでいて動じず、触れるようで実体がなく、無害のようで威嚇的で、動きがあるようで生命がなく、子供っぽいようで超セクシー、と2極の感覚が共存するという、全くもって複雑な存在に生まれ変えた。存在?いや、外観?
クーンズにとって兎は「復活祭のシンボル、政治的なもの(アメリカではそうなの?)、プレイボーイのバニーなどと、カメレオンのように多様に姿を変えることができる大きな可能性のあるもの」だそうだ。そう考えると、この兎が未来を開く偉大なものに見えてくるから不思議だ。
そして、息を吹き込むという行為は深呼吸と同じで、深呼吸すると楽観主義でいられる、と。クーンズの作品は根底にアメリカ人らしい楽観主義がある。関係ないかもしれないが、彼のお顔を拝見すると作品同様に未来へ向けての明るさがにじみ出ているように見える。
何だと思います?これ。
ペットボトルとストローに見えるし、風船にも見えるし、ガラス瓶?
実は、チューリップなのですよ。3つ目の部屋は「祝い」の作品を集めている。お祝い事で花を贈るということで光沢あるチーリップの花束。
「祝い」の部屋には、これまた巨大なバルーンを装ったステンレス製の犬。このシリーズは赤、黄、青、緑、オレンジ、ピンクと5色存在するらしいが、赤が一番可愛いかも。巨大さというのも現代アートの要素の一つだそうだ。
子供のパーティーで見かける長細い風船から作った犬が題材で、一見すると楽しさが溢れている。そんな外観だが中は空洞で、まるでトロイの木馬のようでもある。と想像すると、ちょっと怖い。
展覧会のテーマ「Shin」は光沢とともに外見という意味も含む。クーンズの作品はトロンプルイユでもある。
バスケットボールが水中に浮いているという不思議な作品。
永遠に中央に浮遊するボールは、ノーベル賞物理学者のリチャード・P・ファインマンの力を借りて実現した。ボールの中に淡水、容器には塩水を入れることで浮遊するが、室内の気温の変化等でボールが移動しても1日のうちでまた元どおりになるのだそうだ。本当なの?
容器の中で完璧なバランスで保っていることで「ユートピア」を表現している。それは胎児でもあり、太陽でもあり、とても神秘的である。(しかし、ただのバスケットボールなのだよね)
バスケットボールはアメリカを代表するスポーツの一つで、スポーツは低い社会階級から上昇することのできる手段でもあるので、楽観主義的な社会的可能性の一つだそうだ。
故にこの作品は、形而上的で、神秘的で、社会学的であるという。
これって芸術?と思うのだが、クーンズがマルセル ・デュシャンからも影響を受けていると聞いて納得した。マルセル・デュシャンと言えば男性用の磁器製便器を「泉」と名付けて芸術作品とした人である。私は30年ほど前(!)にパリのポンピドゥーセンターで天井から吊られた便器を見て仰天し、そのあとジャック・デリダの授業で教授にデリダ的にはこれも芸術か?と尋ねたことある。教授は肯定したが、脱構築とは理解の範囲を超えてしまうものの非常に面白い。
このイルカの浮き輪はアルミニウム製。
この部屋はプールで遊ぶビニール製の浮き輪を題材としているが、アメリカ生活とプール、そしてこの作品はプールとともにアメリカ人主婦が使用するステンレス製調理器具を一緒にすることで、ザ・アメリカ(の生活水準の平均?憧れ?)を表現しているらしい。
それでもクーンズにとって全てがアートに変わるのではないらしく、作品の元となるバルーンを数点購入し、その中で最適なものを選ぶそうだ。バルーンの中でも適しているのとそうでないものがあるらしい。
色々となるほどと思いながらも、その心は?とやはり首をひねるのである。
衝撃を受けた作品は、ネオンに照らされた「電気フライヤー」。なんのことはない、アメリカ人にとってお馴染みの画期的な電気製品の一つである。
しかし、このフライヤーは使用されないので決して壊れない。ということは、不死を意味する。一方、これを観る我々の命はいつの日か果てる。古代ギリシアでは必ず死ぬ運命の人間に対して不死身の神々がいた。19世紀に「神は死んだ」とニーチェは言ったが、現代人は電気フライヤーを持ってして死を意識せねばならないのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
この強大な鳥ちゃんを見て!花が活けてあるんよ。この時期に長持ちする花を選んだそうで、菊やカランコエなど季節の花が美しく飾られていた。これが春の展示だとしたら違った花が活けられて、また雰囲気が異なっただろうな。
クーンズの作品は全体的にキッチュという言葉が思い浮かぶが、クーンズは嫌いな言葉だそうだ。なぜなら、芸術には崇高・低俗はないということだ。アメリカ社会に浸透した日常の物体に手を加えて、クーンズ的芸術に昇華させる可能性を含んでいるということか?芸術とは?
「ゲイジング・ボール」というシリーズは、ギリシア彫刻に光沢のある青いボールが乗っかっているというもの。古代彫刻の複製もゲイジングボールもアメリカ生活には馴染みある装飾品で、ここでもまたクーンズのアイデンティティの一つ「アメリカ」が表現されている。
時が止まったような白い古代彫刻に、観客を含めて周辺にある全ての「今」を反射するボール。観客がボールを覗き込むことは、作品を鑑賞すると同時に自身の存在を認め、古代と現在と時を超えて旅をする、というコンセプト。自分を映す魔法の鏡みたいなもの?
クーンズ曰く、観客自身の姿がカラフルで光沢ある作品の表面に反射することは、まるで観客が作品の内臓に入り込み見るものの感覚に直接訴えかける。展覧会を出た観客は芸術を持ち帰り、芸術が人間の可能性を見せてくる。それが刺激となり、力となり、自身の存在を肯定する。
クーンズにとって芸術とはポパイのほうれん草なのだそうだ。
かつて芸術が表現するのは、製作者は人間ではあるものの人間には手の届かない神の世界だった。次にルネサンスの時代で人間目線で神の世界を表現するようになり、現代になって人間が芸術を持ち帰り判断を下す。
帰途、心にクーンズの作品を持ち帰りながら人間、芸術を考えていると、ざわつきを隠せないもののクーンズの作品が何故に高価なのかほんの少しわかったような気がした。たとえ時が過ぎると共にオブジェに時代を感じようとも、作品の構想が辿り着く楽観主義が人を惹きつけるのかもしれない。
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