プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ
ビスコッティの町プラートの歴史は、1350年からイタリア統一まで約500年間フィレンツェの支配下に置かれていた。
2012年だったか、トスカーナ州の10県が4県にまとめようという話が出た時、プラート県はフィレンツェ県下に組み込まれるという提案があった。するとプラート市長は、200年前にようやくフィレンツェから自由を得たというのにまたフィレンツェの下に入るのか!と、この提案がいかに馬鹿げているかを示すのに、インタビューをトイレで受けたのが記憶に新しい。その心は、クソみたいな話ってことかねぇ。
経済はというと、12世紀から盛衰はあるものの織物業で発達してきた。19世紀から再び盛んになった織物工業が中国人移民を呼んだのか、今ではイタリアで一番中国人の人口密度の多い町である。(人口としてはミラノ、フィレンツェ、ローマ、そしてプラートだが)
これでけ聞くとパッとしないプラートに思えてしまうが、実は意外と面白い。まずは14世紀に生きたプラートの商人フランチェスコ・ダティーニの話をご紹介したい。
フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニは、1335年ごろプラートのそれほど裕福ではない家庭に生まれた。15歳の時、遺産で手に入った少しの土地を売ってアヴィニヨンへ仕事を探しに旅立つ。ちょうど欧州の人口の半分を死に至らしめた1348年のペスト(黒死病)直後である。人口減少のため労働者が減り仕事ができる人が重宝された時期であり、当時のアヴィニヨンといえば『アヴィニヨン捕囚』で教皇庁が置かれた欧州の中心地であった。時期、場所、運が重なり、フランチェスコはアヴィニヨンでビジネスチャンスをつかんだ。
アヴィニヨンで様々な商品の交易を行い、今でいう株式会社(に似た共同経営コンパーニア)をプラート、フィレンツェ、ピサ、ジェノヴァ、アヴィニヨン、バルセローナ、マヨルカ、ヴァレンシアの8箇所で経営した。他に個人会社をプラートとピサに2社、さらに銀行業を営んでいた。自分の指示なしでは何事も動かなかったので、あちらこちらに飛脚を使って手紙を出した。当時の飛脚はフィレンツェとジェノヴァ間は所要日数3日と大変優秀であったようだ。それに比べて、郵便物が到着するのにどれだけ時間がかかろうが到着しただけでも良しとする、そんなずさんな郵便事情の昨今である。
1377年に教皇庁がアヴィニヨンからローマに戻り経済の中心がイタリアへ移ったとともに、フランチェスコも33年間のアヴィニヨン生活を終え、1384年には生まれ故郷のプラートに帰国した。48歳のことである。その後プラートに建てたのがこの邸だった。
現在は博物館となっているフランチェスコ・ダティーニ邸では、当時のフレスコ画の装飾が残る幾つかの部屋と残された資料の一部を見ることができる。
廊下の天井も素晴らしい。こんな柄の紙、売ってるよね?
旅人の守護聖人の聖クリストファロ。なぜこの聖人が廊下の壁に描かれているかは謎らしいが、おそらく多くの客人が欧州中から旅人としてやってきたためではないかということだ。修復作業で洗浄した後に足元にいる魚?イルカ?が現れた。
よく見ると、大きな魚が小さい魚を飲み込んでる??周りの魚もちょっと怖い。
聖クリストファロの肩に乗るキリストが、落ちないようにクリストファロの髪の毛つかんでたり、衣装がピーターパンのような袖で可愛い。
どの部屋も美しく飾られている。博物館として訪問できる2つの部屋はいずれも客間だったそうで、1つのベッドの間、2つのベッドの間と呼ばれていた。シングルルームとダブルルームやね。これらの部屋に、大使、教皇、ナポリ王など要人が滞在したそうだ。
オレンジの木の中のコウノトリ。コウノトリの部屋とも呼ばれるダブルルームの四方に描かれたフレスコ画は、森の中の狩りがテーマ。家の外に庭園があり、家の中にも庭園がある、当時ではとても斬新なスタイルで多くの人を魅了した。
四方すべての面にフレスコ画が残っているわけでないのが残念である。様々な種類の鳥に加え、猫ちゃん?
ふお~!目つきの悪さがたまらん!
この部屋にはフランチェスコの手紙(コピー)が展示されている。愛人への手紙も。『女を囲い、もっぱらヤマウズラを食べ、絵と金を崇め、造り主と自分のことを忘れている男』とは友人のフランチェスコ評。
フィオリーノ金貨!フィレンツェの金貨で、1252年が最初の造幣された年である。24金で重さ約3,5g。表がアイリスで裏が洗礼者ヨハネ。本物を初めて見たかも?
フランチェスコの遺産は10万フィオリーノ金貨だから、うーん。どんだけ?現在のレートに換算するのは難しいけれど1フィオリーノ金貨が12万円ほどとして、遺産は億単位か。しかし、10万フィオリーノ金貨のうち7万はプラートに貧民救済慈善事業団体を設立し寄付している。ってことは、どれだけ後ろめたいことをやらかしていたか。7万フィオリーノ金貨で天国への入場切符を買ったわけやね。
フランチェスコ・ダティーニはどれほどの商人だったのか?敏腕商人だったようだが、フィレンツェのペルッツィ家やバルディ家、のちのメディチ家にはさすがに適わなかった。中世の家を見学するなら、ダティーニ邸よりもフィレンツェのダヴァンザーティ邸の方が見応えがある。
しかしフランチェスコ・ダティーニが、どの商人よりも注目されるには理由がある。
それは、残っている資料の多さである。
中世の商人たちはあらゆることを紙に書き残した。『あらゆること、あらゆる購入、あらゆる売却、あらゆる契約、あらゆる収入、店のあらゆる収支を書くこと、常に手にペンを持つことが商人にとって必要である』と言われていた。(レオン・バッティスタ・アルベルティの家政論/中世イタリア商人の世界より)
1870年、ダティーニ邸の階段下の穴蔵から書類の束が発見された。書類の束とは、602冊の帳簿、会計簿、約300通の契約書、保険証券、為替手形や小切手、約13万通の通信、約1万通の私的な手紙だった。アヴィニヨンからピサへ移動させるのに書類の95%が失われたと言うから、フランチェスコの75年の一生のうちにどれほどの書類を作成したのか、こういった意味でも中世の商人の凄さに驚かされる。
これらの資料のほんの一部を博物館でコピー展示として見ることができるが、原文資料はダティーニ邸に隣接する県立記録文書保管所に保管されている。
ここを訪れた時に記録文書保管所でフランチェスコ・ダティーニ展が開催されていたのでそちらも見学していると、上の写真の古めかしい本を抱えた女性に出会った。フランチェスコの残した資料の原文だということで、お願いして写真を撮らせてもらった。資料を運んでいるのは、簿記専門機関が研究材料として資料をデジタル化している作業中のため。別の部屋でパシャパシャ写真を撮っている人々がいたのはそのためか。なにやら日本人ぽかったなぁ。
簿記は中世のイタリアで発達した。見る人が見れば非常に面白い資料なのだろうが、私はたとえ日本語だったとしてもさっぱりわからん。残念ながら。しかし、中世の商人の生活を垣間見ることができて非常に面白かった。
小さな博物館だが、ご興味のある方は立ち寄ってみてくださいませ!
Museo Casa Francesco Datini
Via Ser Lapo Mazzei, 43
10時から13時、15時から18時
入場無料
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